CG Master Mitsuru Kaneko’s “Taming the Infinite Frontier” Chapter 7

CG Master Mitsuru Kaneko’s “Taming the Infinite Frontier” Chapter 7

ハリウッドへの留学は、失敗が続いて疲弊しきっていただけに絶好のファーム落ちであった。
テレビ局自身も、そこに働くスタッフに本物の知識をつけないといけない、またそのようなゆとりも出てきたという時でもあったのだろう。

  フジテレビは最大で2年間の留学期間をくれることになった。しかし、受入先は自分で探してくること、会社の役に立つ場所を選ぶことが条件であった。なにしろ、円とドルの公式レートは360円、ヤミで換えると420円という時代であった。幸い父親の職業が映画会社の劇場部門であったため、そのつてで、MGMスタジオを紹介してもらった。とにかく来てくれれば面接をすると言う。

  あとから分かったことだが、まずこの面接をしてもらう、というのが至難なのであった。面接をするということは、ハリウッドという業界に何らかの関係があること、実績を認められたこと、あるいは書類審査を通ったということである。ハリウッドというのは、入るのは目茶苦茶に難しいが、いったん入るとそのあとはどこに移るのも楽なのである。私にはハリウッドが評価するだけの実績はない。父親のつてだけであったが、ファミリー主義の大スタジオにはそれが効いたのであった。「あいつの父親は俺たちのファミリーだ」というのだ。

  1964年に日本を出た。さすがに船ということはなかったが、まだ直行便はなくハワイを経由しなければ行けなかった。トランジットの乗客には航空会社がホテルを世話してくれた時代であった。ハワイには駐車場に周りを囲まれたレストランとか、ショッピングモールなどがあった。ホテルの朝食では、パリパリのベーコンとスクランブルエッグという映画でしか見たことのないものが目の前に運ばれた。そこには日本とは全く違う文化があった。真珠湾の戦艦アリゾナ沈没記念館ではまだ油が海底からふつふつと沸いていたのにはショックを受けた。

  いよいよアメリカ本土ロサンゼルスであった。まず移民官のいる入国審査がある。ここの前に立った時は心臓が高鳴った。ここでの対応を間違えると送り返されることがあると脅されていたのだ。移民官はにっこりと微笑んで、最初に私に話かけてきたのは「ウエルカム・トゥ・ザ・ユナイテッドステーツ」であった。私だけに言ったのではない。他の人に対してもそうであった。

 これでアメリカに対する印象は恐れから親しみに変わった。まずにっこりと微笑む。そこには来訪者に対するアメリカ社会の基本姿勢が表れていた。どんなに気がやすらいだことだろうか。

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